鑁阿寺
栃木県足利市家富町
本堂は鎌倉時代、建久7年(1197年)に足利義兼が足利家の邸宅を廃して、持仏堂として建立。1129年の火災で失い、尊氏の父・足利貞氏により正安元年(1299)に再建されたものが今に残っています。
足利氏のイメージから室町時代のものかと思っていましたが、実は足利尊氏以前、鎌倉時代に建立されたもので、当時中国の最新寺院建築様式の一つであった禅宗様を採用しており、その価値の高さから国宝に指定されています。
結構、大きく屋根のそりもあり、美しいですね。感銘を受けました。
手前の鐘も大きくていいですね。
訪問時、風が強く誰も叩いていなのにかんかん鳴ってました。。いとおかし。
他にも重要文化財の建造物あり。
内部に八角の輪蔵があり、一切経二千巻余(黄檗版)を蔵し、 普段は非公開ですが期間限定で団体での公開は、されています。
ホームページには、足利義兼公の創建1407年に関東管領足利満兼により再建されたものとされてますが、登録では江戸時代前期になってます。
なぜかはわかりません。
異国情緒のある建物です。こちらも美しいです。
池のある庭園の中に鐘楼あり、鎌倉後期の建造が今に残ってます。
説明文も書きたかったのですが、ホームページに何故か記載がなかったです。。
他にも県指定の貴重な建造が、ありますがやはり塔好きの私なので、多宝塔を上げたいと思います。
創建当初は足利義兼によって建立されましたが、江戸時代の元禄5年(1692年)に、徳川五代将軍の母である桂昌院尼公によって再建されました。
鑁阿寺のホームページ
元は、鎌倉時代の足利家屋敷で、回りは堀と土塁で囲まれています。
堀にはたくさんの鴨がいます。かわいいです。
戦国時代の時代劇などで戦さイコール城のイメージがありそうですが、城ができたのは室町中期以降でしょう。
それまでの大名や御家人は大きな屋敷を持ち、大きな門、堀や高い塀をめぐらして、奇襲への対応ができ、最悪の場合籠城できるようになっていたようです。
源氏の末裔を称した徳川家の庇護もあったようですが、このような武家の屋敷跡が残っているのもあまりない気がしますね。
もっと、評価されてもいい気がします。
なお、JR両毛線足利駅から徒歩約10分とアクセスも良く、拝観料も基本的に無料で、気軽に訪れることができる史跡のひとつです。
足利氏のイメージから室町時代のものかと思っていましたが、実は足利尊氏以前、鎌倉時代に建立されたもので、当時中国の最新寺院建築様式の一つであった禅宗様を採用しており、その価値の高さから国宝に指定されています。
結構、大きく屋根のそりもあり、美しいですね。感銘を受けました。
手前の鐘も大きくていいですね。
訪問時、風が強く誰も叩いていなのにかんかん鳴ってました。。いとおかし。
他にも重要文化財の建造物あり。
重要文化財 経堂 【江戸前期】
内部に八角の輪蔵があり、一切経二千巻余(黄檗版)を蔵し、 普段は非公開ですが期間限定で団体での公開は、されています。
ホームページには、足利義兼公の創建1407年に関東管領足利満兼により再建されたものとされてますが、登録では江戸時代前期になってます。
なぜかはわかりません。
異国情緒のある建物です。こちらも美しいです。
池のある庭園の中に鐘楼あり、鎌倉後期の建造が今に残ってます。
重要文化財 鐘楼 【鎌倉後期】
説明文も書きたかったのですが、ホームページに何故か記載がなかったです。。
他にも県指定の貴重な建造が、ありますがやはり塔好きの私なので、多宝塔を上げたいと思います。
多宝塔
創建当初は足利義兼によって建立されましたが、江戸時代の元禄5年(1692年)に、徳川五代将軍の母である桂昌院尼公によって再建されました。
鑁阿寺のホームページ
元は、鎌倉時代の足利家屋敷で、回りは堀と土塁で囲まれています。
堀にはたくさんの鴨がいます。かわいいです。
戦国時代の時代劇などで戦さイコール城のイメージがありそうですが、城ができたのは室町中期以降でしょう。
それまでの大名や御家人は大きな屋敷を持ち、大きな門、堀や高い塀をめぐらして、奇襲への対応ができ、最悪の場合籠城できるようになっていたようです。
源氏の末裔を称した徳川家の庇護もあったようですが、このような武家の屋敷跡が残っているのもあまりない気がしますね。
もっと、評価されてもいい気がします。
なお、JR両毛線足利駅から徒歩約10分とアクセスも良く、拝観料も基本的に無料で、気軽に訪れることができる史跡のひとつです。
2024-10-11 14:51:23(金)ページのトップへ
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